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東京高等裁判所 昭和50年(う)2621号 決定

控訴人 弁護人

被告人 大濱松三

弁護人 井本良光

主文

大濱松三に対する殺人及び窃盗被告事件は、昭和五一年一〇月五日被告人がした控訴取下の申立により、終了したものである。

理由

本件控訴取下の申立に関する弁護人の主張は、弁護人井本良光提出の昭和五一年一〇月九日付上申書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

一  所論にかんがみ、一件記録に当裁判所における事実の取調べの結果を併せて検討してみると、本件控訴取下の経緯は次のとおりである。

大濱松三に対する殺人及び窃盗被告事件について昭和五〇年一〇月二〇日横浜地方裁判所小田原支部が被告人を死刑に処する旨の判決を言い渡したところ、被告人は右言渡の前から強度の厭世観を抱き死刑判決を望んでいたので、右判決に対し控訴の申立をしなかつたけれども、原審弁護人から同年一一月一日適法な控訴の申立があり、当裁判所は、昭和五一年五月一一日第一回公判期日において弁護人の請求を容れ、被告人の犯行時及び鑑定時における精神状態につき東京医科歯科大学教授医師中田修に鑑定を命じ、同鑑定人は同大学犯罪精神医学研究室文部教官山上皓を鑑定助手として同日以降鑑定のための準備作業に入り、同年六月三〇日から同年一〇月五日までの間に一〇回にわたつて被告人の心身の状態を検査した。右検査の過程において被告人は鑑定への協力を拒否するようになつたが、それは、鑑定の結果のいかんによつては当審で刑の減軽又は無罪の判決に至るかも知れないことを恐れ、あくまで原判決のとおり死刑に処せられたいとの念慮に出たものと思われる。又、そのころから、被告人は、控訴を取り下げたい旨を鑑定人や拘置所職員に対して洩らすようになり、拘置所職員や鑑定人からの再三の説得にも従わず、遂に同年一〇月五日、控訴取下書を作成し、これを、当時被告人を収容していた東京拘置所の長に差し出し、その後も、弁護人、検察官及び当裁判所に対し、前記控訴の申立は被告人の意思に反して行われたものである旨訴えるに至つた。そして、この控訴取下の申立の動機は、死刑に処せられることによつて死を遂げたいと願うからであり、この願望は、自分は騒音恐怖症や不眠症に悩んでいるため今後の社会生活や拘禁生活に到底耐えられないと思い込み、一刻も早くこの世から去りたいと願つたものであると考えられる。

二  ところで、前記鑑定人作成の昭和五一年一一月二五日付鑑定書及び当裁判所が同鑑定人を審尋した結果によると、同鑑定人の見解では、被告人は、昭和四九年八月二八日本件犯行を行つた時点ではパラノイアに羅患していて、殺害後自己の服装を整えて逃走するためにした窃盗行為は別として、各殺人行為は妄想に動機づけられて実行したもので、当時事理弁識能力を欠如しており、前記鑑定の時点、すなわち、前記控訴取下の申立の時点においても、依然としてパラノイアの状態にあり、妄想は犯行当時よりも一層体系化しているというのである。

三  そこで本件控訴取下の申立の効力について考えてみるに、当裁判所は、本件被告人のようなパラノイア患者につき、人格の単一性ということから当然に一部責任能力を否定することはできないのであつて、単一不可分の人格を法的に評価し、ある面に関してのみ責任能力や訴訟能力を肯定することも可能であると考えるのであり、前記鑑定人も言うように、本件各殺人行為は妄想に動機づけられたものとして責任能力が否定される疑いがあるとしても、殺害後逃走のために犯した窃盗行為については妄想とは直接関係がないとして責任能力が肯定され得るのと同様に、本件控訴取下の申立はパラノイアとは一応切り離して考えることも可能であると判断する。これを本件についてみるに、前述の、本件控訴取下の経緯に徴すると、被告人は、控訴取下の申立の結果原審の死刑判決が確定し、その後これを動かす手段が全くないことになる旨を熟知した上で右申立に及び、この決意はパラノイアとは直接関係がないものであると考えられる。そうすると、本件控訴取下の申立は、死への前記願望の点において、通常人の考え方からすると不自然なものではあるけれども、申立それ自体は訴訟能力に欠けるところのない精神状態すなわち、自己の防禦上の利害を理解し、これに従つて行動する能力を備えている状態で、真意を表明したものであると認めざるを得ないから、前記被告事件は、右申立によつて終了したことになる。

よつて、主文のとおり決定をする。

(裁判長裁判官 寺尾正二 裁判官 山本卓 裁判官 田尾健二郎)

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